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1989(平成元)年12月11日(月)と18日(月)の2回にわたって「大分合同新聞夕刊科学欄」に掲載された記事を若干加除修正し、主な図を追加して、掲載します。


別府湾の地下構造 ー沖の浜港の消滅によせてー

由佐悠紀

【1989(平成元)年12月11日】

 別府湾周辺に住む人々の間では、およそ400年前、地震とそれに続く津波によって、別府湾に沈んだ瓜生島の話が語りつがれてきた。しかし、それを裏付ける史的資料が十分でなかったため、学問の対象として真面目にとりあげられることはほとんど無く、瓜生島沈没は伝説の域を出なかった。
 ところが、面白いことに、自然科学者の間ではこの事件が事実として認められ、たとえば、わが国で出版されている自然科学のデータ集としてもっとも定評のある「理科年表」には、このことが記載され続けてきた(注1)。

注1:地震発生の日にはいくつかの説があるが、理科年表では1596年9月1日(慶長元年閏7月9日)とされている。

 こうした状況の下で、加藤知弘大分大学教授を中心に結成された瓜生島調査会の活動を通して、「津山氏世譜」などの新史料が発掘され、瓜生島伝説は岡藩の飛び地・沖の浜港の消滅として装いを新たに蘇ることとなった。しかし、一級とされる史料が欠如していることに変わりはなく、文献学的調査法の限界が明らかとなったのである。これを打開し新たな展開を求めて、自然科学的手法による調査が計画され、1977(昭和52)年に湾底の地層を調べるための音波探査機ユニブームが導入された(注2)。
 これを用いての調査の目的は次の二つであった。①別府湾底に埋没しているであろう沖の浜港の痕跡の探索。②別府湾一帯の地下構造の解明。このうち②は、事件を引き起こした地震の発生と深く関係している。すなわち、原因(地震)と結果(沖の浜港消滅)に、両面から迫ろうとしたわけである。

注2:参考文献
加藤知弘(1978):『瓜生島沈没』,葦書房.
加藤知弘(1987):『海に沈んだ島-幻の瓜生島伝説-』,福音館書店.
福音館書店の本は子供向けに書かれているが、内容は科学的に高度なものである。

 得られた結果は実り多く、本紙(大分合同新聞)上にも逐一紹介されているが、ごくかいつまんで述べておこう。まず①については、史料から沖の浜港と考えられていた海域(勢家沖)に、地崩れの跡が発見された。②については、別府湾底に無数の断層が分布し、しかも、それらが過去しばしば、最近まで動いた形跡のあることが認められた。とくに、別府湾北西部の日出沖で見出された断層群は、教科書的と言えるほどである(図1)。いずれも画期的な発見であるが、なかでも、断層群の発見は地学的にみて重要であり、この存在をはじめとする別府湾の地下構造が多くの研究者の注目を集めることとなった。どういう風に重要なのか、そして、その後の調査の発展などについて記してみたいと思う。


図1 国際観光港沖(左側)から日出町海岸付近(右側)に至るユニブーム記録.
図の左方と右方の記録が不明瞭な部分は、ガス含有層と解釈されている.
出典「アリス・由佐・太井子(1989),第四紀研究,28,185‐197.」

 まず、九州の地図を開いてみよう。福岡・佐賀・長崎の各県が占める北部九州と宮崎県・鹿児島県の南部九州とは、その形がかなり違っていると感じられはしないであろうか。北部九州の海岸線・島々・山々などはいずれも北東から南西の方向に並んでいて、中国地方からの延長のように見える。それに対し、南部九州では、宮崎県の日南海岸の印象的な海岸線に代表されるように、北北東から南南西へと連なり、その延長上に数多くの島々が美しい弧を描きながら遠く台湾まで続いている。そして、この九州を北と南に分かつ境界は、佐賀関半島と熊本県の宇土半島を結ぶ線のように見える。
 実は、この地形上の違いは地質の違いでもあり、中生代以前の岩石類はこの地帯を境に明瞭に異なることが古くから知られていた。
 中部地方より西の日本列島の基盤となる古い地層は、中央構造線と呼ばれる大規模な構造線によって北と南に分けられ、その延長が、佐賀関半島と宇土半島を結ぶ地帯のどこかにあることは確かなようである。しかし、どこを通っているのかは、残念ながら明瞭ではない。はっきりしないことの理由は、この地帯が新しい火山岩類で覆われてしまっているからである。これを別の観点から見れば、大分から熊本に至る中部九州は、その北と南とは地学的に性格の異なる地域、すなわち新しい火山活動とそれに関連する地学現象が卓越する第3の地域として位置づけることができる。
 こうした特殊性、なかでも鶴見火山群を中心とする地域の特殊性は、多くの地質学者の興味を引き付けてきた。そうして昭和の初め頃までに得られた結論は、この地帯を覆う火山岩類のほとんどは新第三紀以降、とくに第四紀(およそ260万年以降現在まで)に噴出した新しいもので、しかもその中央部は地盤が沈降しているということであった。この結論は、部分的に問題を含んではいるが、それは当時の研究手段が限られていたためであり、基本的には現在でも通用するものである。

 その後も多くの研究が行われているが、近年では地熱開発とも関連して、中部九州では新しい手法による各種調査が国家的事業として進められている。たとえば、航空写真や人工衛星を用いた断層など断裂系の抽出、重力調査や電磁気探査あるいは3000メートルの深さに及ぶボーリングによる地下構造探査、さらには岩石に含まれる微量の放射性物質などを利用した岩石の年齢の測定などである。これらの調査研究により、かつて得られていたこの地帯に対する地学的描象は、より詳しいものとなった。
 膨大な資料をまとめた最近の研究によれば、中部九州ではこの五百万年の間、地盤の沈下と火山の噴出が同時進行してきた。すなわち、この地帯は地溝帯であり、この一連の現象は断層運動を伴いながら、次第に地溝帯の中軸部へと縮小してきたとされる。峻険な火山が並ぶ鶴見・由布から九重・阿蘇に至る地帯がその中軸であり、この中軸部に近いほど新しい岩石が、周辺ほど古い岩石が帯状に分布している。
地盤の沈下、言い換えれば地溝帯の形成は、これを境にして九州が北と南に分かれつつあることを意味する。むつかしい言葉で言えば、中部九州は南北方向の伸張応力場である。過去90年の測量から、実際に1年当たり平均1.4cmの早さでひろがっていることが分かってきた。しかし、この値はごく最近のものらしく、この五百万年間の平均的な伸張速度は1年当たり0.1cm程度のようである。また、地盤の平均的な沈下速度は1年当たり0.05cm位らしい。
 年間0.05cmの沈下とは大変小さく思われるが、地学的現象は我々人間の尺度とは比較にならないほどの長い時間にわたって進行するものである。この地溝の活動はおよそ五百万年前から続いていることを述べたが、0.05cmに五百万を掛けると、沈下量は2500メートルにもなる。実は、ボーリングを含むいろいろな地下探査結果から古い基盤岩の深さが推定された結果、逆にこの沈下速度が見積もられたのである。ただ注意しておくと、この沈下は連続してゆっくりと進むのではない。南北方法への伸張応力による歪みがたまってくると、地盤がそれに耐えきれなくなって断続的にかつ急激に破壊される。その現われが地震であり、また断層である。この地溝に沿って無数に分布する断層が、東西性を主体にしており、さらに地溝の中軸側が落ち込んでいることも、この地殻運動の証拠であると言うことができる。以上は、陸上における調査から導かれたものである。



【1989(平成元)年12月18日】

 中部九州の地溝の陸域の東端は、別府温泉である。しかし、そのさらに東には、目でみても明らかな沈下部・別府湾がある。別府湾底の等深線はほとんど東西方向に走っており、大きな溝そのものである。すなわち、中部九州の地溝の東端は別府湾と言える。したがって、この地下構造とその動きの解明は、これまで述べてきた中部九州の地学的運動の理解をさらに深めるであろう。また、大分県から熊本県に至る一帯に展開する温泉地熱現象が、新しい火山活動ひいては地溝の形成の産物であることを思うと、この面からも別府湾底の地下構造に関する研究の重要性がうかがわれるであろう。さらには、中国・四国地方から続いてきた日本列島が、この中部九州付近で折れ曲がっていることを思うと、日本列島の形成と変動のメカニズムの解明にも深く関わり合うに違いないのである。
 それゆえ、瓜生島調査会が大分大学と京都大学の協力を得て行ったユニブームによる別府湾底地層探査の結果は、はじめのうちこそ仲間内だけ、あるいは大分県内くらいでしか知られていなかったが、次第に注目を集めるようになったのである。たとえば、日出沖の断層群(図1)は、この地域が南北方向に引っ張られるように割れていることの重要な証拠のひとつとされている。
 先に述べたように、断層運動‐地震‐は断続的に起こる。したがって、断層の年代を調べれば、地震が何年間隔で起こってきたか、さらには将来何時ごろ起こりそうかということを推定できるであろう。別府湾底に残されている断層の記録は、近い過去にしばしば地震が発生していることを示しているから、将来も起こると考えておかなければならない。しかも、いわゆる直下型地震であるから、たとえ地震そのものの規模はそれほど大きくなくても、揺れは激しいものとなろう。したがって、この種の研究が別府湾一帯における地震対策に不可欠であることは言うまでもない。もちろん、別府湾の断層群の監視はきわめて重要である。

 話は前後するが、私たちのユニブーム記録を見た東京大学地震研究所のグループは、まさにこの観点から日出沖断層のひとつでボーリング調査を行って、最近数千年間における地震の発生と断層運動による地層のずれを見積もり、それを基に、地質学的に近い将来、地震が発生する可能性のあることを予測している。さらに同グループは、別種の音波地層探査機を用いて、より詳しい断層分布の調査を行い、沖の浜港を消滅させた地震の跡と思われる断層を亀川沖で見つけている。
 ユニブーム記録は、これまでに述べたのとは別の情報も含んでいる。地層の堆積状態や断層が、ユニブーム全体にわたって明瞭に認められるわけではない。日出沖などは非常に明瞭な記録の取れる場所であるが、高崎山沖の別府湾最深部を中心とする範囲では、記録がぼやけてしまっている。このことは、音波が乱反射していることを意味するが、ひとつの可能性としてガスの存在が推定されるのである。これが炭酸ガスなら、地下深所から深い亀裂を通って上昇してきているのかもしれない。興味深いことに、日出沖の断層群の北側にも、そのような場所がある(図1)。
 日出沖断層にはガスが無いというように、逆の見方をすれば、その断層群の根は浅いと解釈できる。もしそうとすれば、その活動は比較的最近(もちろん、地質学的な時間である)始まったことになる。ガスの存在の有無の確認、ガスの種類の特定をはじめとして、この問題は将来の研究課題のひとつである。
 そしてまた、地層中に多量のガスが含まれておれば、地震などの振動を受けると、土地は崩れやすいのではなかろうか。ガスの存在は、沖の浜港の消滅にも関わっている可能性がある。

 さて、これまで述べたユニブームでは、海底下せいぜい数十メートルまでの浅い所しか調べられない。その記録に現われている地学的運動は、深部の運動によってもたらされたものである。したがって、理解を深めるためには、より深部におよぶ調査が必要である。
 京都大学地球物理学研究施設(現在;京都大学地球熱学研究施設)が、今年2月に実施したエアガンによる探査は、この線に沿ったものである。エアガンも音波探査の一種であるが、低周波でエネルギーの高い音波を使用するので、深部の構造を調べるのに適している。これにより、中部九州地溝では初めて4000メートル深までの音波探査記録が得られた。その結果、別府湾は三つのブロック、すなわち別府湾北西部海域(亀川・日出沖)、別府湾中央部海域(別府市・大分市の沖合い)、および別府湾東部海域(湾の入口部)に大別されることが分かった(図2)。


図2 エアガン音波探査によって明らかにされた別府湾の地下構造区分.
A:別府湾北西部海域〔根の浅い円弧状の断層が発達〕,
B:別府湾中央部海域〔深い盆状構造〕,
C:別府湾東部海域〔船底状の地溝,等深線は基盤表面の深さ(海面下m)〕.
MTL:従来考えられていた中央構造線.
BB:別府湾横断構造線.
RS:国東半島側の基盤(領家帯)の南限
出典「由佐ら(1992),地震 第2輯,45,199‐212.」



図3 別府湾北西部海域(図2のA:図1の下方)におけるエアガン記録.
地層の盛り上がりと断層群が見られる.



 北西部海域では、断層群が発達している。すでに述べたように、ユニブームなどの浅層探査でも見付かっていて、その根は浅いと推定されていたが、この推定を裏付けるように、300メートルくらいの深さまでしか延びていない。その下部の地層は盛り上がっていて、岩体が隆起しているように思われるのである。
 中央部海域の特徴は、音波の反射が弱く、断層はほとんど見られず、また、基盤が不明瞭なことである。これらは、厚い堆積が比較的急速に起こったことを窺わせる。あるいは、すでに推定されているガスの存在の効果があるのかもしれない。
 東部海域は、前の二海域とはまったく性格が異なり、湾の入口で3500メートルにも達する基盤の深い落ち込みが-地溝構造-が確認された。この地溝の断面は船底の形をしており、その主軸は中央構造線に平行である。これに加えて印象的なのは、多数の深い断層が発達し、さらに、湾口から湾奥の向き(ほぼ北西-南東方向)に、基盤の上の地層が大きくうねっている(褶曲)ことである。これは、この方向になんらかの圧縮力が働いていることを思わせる。
 ともかく、深い音波探査により、これまで知られていなかった知見が得られた。一口で言えば、別府湾の構造は予想以上に複雑であった。エアガンやユニブームで得られた姿は、地下の構造の一面でしかない。今後さらに、いろいろな手法を導入して総合的に、この興味深い別府湾とその周辺部の調査の推進が望まれる。これは、単に学問的興味だけではなく、将来のたとえば地震対策のためにも必要だからである。

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