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地球のはなし  別府温泉地球博物館 代表・館長 由佐悠紀

No.39
「日本湖」

 この原稿は、45回目の終戦記念日である8月15日に書いている。ことさら日付にこだわっているのは、戦争に関することを考えてみようとしているからではない。今年の夏の暑さが尋常ではなく、このくそ暑いのに、などと乱暴な言葉を吐きながら雑務に追われて、いささか参っているので、1990年の夏はひどかったことを、記憶に残そうとしているのである。

 私は、日頃、大分合同新聞のコラム・東西南北を楽しんでいる。この文章の達人も、8月12日には、「今年の暑さは記録的だが…」と、酷い暑さに相当へきえきしておられるらしい。お目にかかったことはないけれども、暑さの中で呻吟されている姿を想像したのだが、「いまでは冷房が普及しているから、日がな一日、暑い、暑い、といっているわけではない。」と続けておられるので、私とは随分違った状況のようだと、半ば、やっかんだ。冷房機の売れ具合や日中の電力使用量の増大ぶりからみても、たぶん、世間の大方は、そうなのであろう。

 ところが、私は、日がな一日、暑い、暑い、とぼやきながら、ワープロに向かって書類を作っている。実験室には、機器類の保守のためという、もっともらしい大義名分があるので、空調設備がかなりすんなりと設置されるのに、研究室まではなかなかやって来てくれないのだ。教育者や研究者は、いちおう、頭脳労働者などと、偉そうな言われ方をされているのだが、その待遇は、機器類にはるかにおよばず、涼しくなる日がきっと来ると、秋風の立つのを期待するしかない。しかし、頭はぼやけるし、体力は消耗するし、あんまり効率の良いことでないのは確かである。

 こんな風に不満を漏らすと、昔の人はみんなそうだった、と言われそうだが、昔と今を比較するのは、どだい無理である。処理すべき書類の量も、期待される処理速度も、大きく異なるのだ。パソコンを始めとする種々の機器類がオフィスに導入されたのは、増え続ける事務の簡素化と効率化を求めての筈であった。
 それで私たちは楽になったか? 今のところ、結果は逆である。つい2、3年前までは、たとえば京都との書類のやりとりは、郵便だけだったから、ゆうに1週間はかかった。のろくて困ると言いながらも、まだ、余裕があった。今はファックスでほとんど瞬時に書類が届き、その日のうちか翌日には、その回答を求められることも少なくない。それに加えて、学会関係の事務もある。国際化とかで、私たちの施設のようなところにさえも、その波は押し寄せて来る。本末転倒ではないかとそしられるのを覚悟で打ち明けると、研究は、雑用の合間を縫ってやるしかない。

 そんな事務書類も論文の原稿も、いつとはなしに、手書きではなく、ワープロでなければならないような雰囲気が支配的になってしまった。書類は書類を呼び、事務は簡素化されるどころか、複雑化しスピードアップされる一方である。これに対応するには、それに見合うためのオフィス環境が必要になるのは当然で、だから、暑い夏には、せめて頭を外から冷やすための冷房を設置しろという主張には、それなりの説得力がある。
 そうして環境が改善されると、事務はますますスピードアップし、多様化して、書類は増える。この動きは、一種の自己増殖とも言えるほどに、止まるところがないように見えて、そら恐ろしくさえある。こんなことを思っていたら、ますます暑苦しくなってきた。
 この暑気払いをどうするか。山か海にでも出かけられれば結構であるが、それも叶いそうにない。夕方、ビールを飲むぐらいが関の山というのは、あまりにわびしいような気がする。そうこうしているうちに、この原稿の締切日も近づいてきたという次第だ。頭の中は、オーバーヒート寸前である。

 それで、涼しいことでも考えようかと、思いついた。それが標題である。ただし、私も日本湖などという言葉は、これまで聞いたことがない。もちろん、現実にそんな湖があるわけではなく、ずっと大昔にはあったのではないか、というあやしげな話である。
 地球が誕生してから、およそ46億年と言われている。その長い歴史のなかでは、刹那とも言える最近の200万年を、地質学の用語では第四紀と呼ぶ。第四紀は火山活動の時代であり、一方では、氷河の時代でもある。この間に、4回の大きな氷河時代があった。その最後の氷河時代は、およそ2万年前に最盛期を迎えた。

 氷河時代はどうしてやってくるのか。その原因については、真面目なものから眉唾的なものまで取り揃えて、30もの説があるのだそうだ。要するに、決定的なことは分かっていないのである。無数の風邪薬があるのに、これぞという特効薬が無さそうなのと似ている。
 原因はともかく、その時代、地球上の水のかなりの部分が、北極と南極を中心とした地域に集まって凍りつき、巨大な氷の塊になったのは事実である。地球上の水の全量は、時代によって、増えもしなければ、減りもしない。だから、ほかの場所の水の量は、氷になった分だけ減らなければ、つじつまが合わない。つまり、海水の量が減って、世界中の海水面が下がった。2万年前の海水面は、今より100メートル以上も低かったというのが、定説である。そうだったとすれば、現在、水深が100メートルより浅い所は、陸地だったことになる。アジア大陸と北アメリカ大陸の間のベーリング海峡は陸地となり、そこを通ってアジアの人々がアメリカ大陸に移住して、先住民になったというのは、すでに有名な話となった。

 では、日本付近はどうだったか。朝鮮半島と九州は、その間にごく狭い水路はあったかもしれないが、対馬海峡はほとんど無くなり、陸続きに近い状態だったろう。
 現在、黒潮から分かれた暖流が、対馬海峡を通って、日本海に大量に流れ込んでいるが、その頃は、おそらくそうではなかったのではないか。そして、広大な日本海域に流れ込む水は、黒竜江のような大陸からの大河の水が主体だっただろう、と思える。ここに、日本湖と呼んでも良さそうな、大きな大きな湖(少しは塩辛かったかもしれない)が、現われる。
 大河からの水は、冷たかったに違いない。その影響もあって、日本列島も寒かった筈である。その頃の大分の夏は、もちろん冷涼であったと想像したい。
 ちょっとは涼しくなるかと期待して、このほら話を考えたのだが、現実はやはり暑い。来年こそは、なんとか私の研究室にも冷房を付けてもらいたいものだという願望は、強まるばかりである。

  - 「月刊アドバンス大分」 1990年9月-



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