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地球のはなし  別府温泉地球博物館 代表・館長 由佐悠紀

No.46
「杜甫の兵車行」

 先月は私の苦手を書いた。苦手だけでは片手落ちでくやしいから、得手もあるはずであると考えてみたが、そうだと言い切れるものが見つからないのは残念である。しいて言えば、本を読むのが早いということぐらいだ。しかし、私より早い人はいっぱいいるし、それに、早く読むだけ早く忘れてしまうし、もちろん、早く読めばいいわけのものでもないのだから、あんまり自慢すべきものではないのだが、これしかなさそうなのでしかたがない。

 早くなったのは、高校1年のときの先生が、最初の授業で、いやしくも学生であるからには1日に1冊は本を読むべきであると言われたのに、それもそうだと妙に共感を覚え、それを実行したからである。新入生は張り切っているのだ。しかし、それがよかったのかどうかは疑問のあるところで、字面だけを追うことで満足してしまうような読み方になったきらいがなくはない。

 ところが、そんな読み方でも、好みの傾向があらわになってくる。私の好みは、しだいに、一方では古いものへ、他方では新しい空想的なものへと両極端に進み、その間に位置する(と言っていいのかどうかは分からないが)文学の類から遠ざかる傾向が強くなった。同じような教育を受けながら、ある者は近代の文学に向かい、ある者は、私のようにそれから離れていくのはどうしてなのか。これを個性と言うのであろうが、分かったようでいて、考えてみれば、何の説明にもなっていない。

 ともかく、そういうわけで、私は中国の歴史にのめり込んだことがある。大学も、文学部に行って中国史を勉強しようかとさえ思った。だから、中国の青海湖の調査に参加する機会を得たときには、大袈裟に言えば、こころときめいた。ことに、杜甫の兵車行の最後の四行「君不見青海頭 古来白骨無人収 新鬼煩寃旧鬼哭 天陰雨湿声啾啾」には強い印象を受けていたので、なおさらであった。

 以前も書いたが、現在の青海湖の辺りは乾燥地帯である。年間の降水量は350ミリ程度しかない。湖の高さは3000メートルを超えるので、気温は低く、年平均値は零度に近い。およそ2万年前の氷河時代には、周辺の山々は氷河に覆われていたらしいのだが、今は深山の一部に残るだけである。と言っても、私はその氷河を見たわけではない。5000メートル級の山に分け入るのは、私には荷が勝ちすぎる。

 一帯の気候の変動に関するデータを収集し、地球規模の気候変動との関わりあいを明らかにしよう、というのが調査の主目的であった。こうした調査は、現状を把握することから始めるのが常道である。それで、2年前の夏、琵琶湖の4倍もある青海湖に注ぐ川の流量を量ることにした。川の流量には、気候に関する情報が含まれているからである。

 そうして湖の周りをめぐってみると、この地が昔からかなり開発されていたことを知った。遺跡もあちこちに残っていて、地面には文字の刻まれた陶片が、今なお散らばっている。あるものはチベット人が、あるものは漢人が建設したものであるという。青海は古くから両民族の接触する、いわば前線地帯だったのだろう。杜甫が詠ったような状況もあったに違いない。

 しかし、腑に落ちない点もある。湿った風景である。とても乾燥地帯とは言えないような気がする。確かに、白骨と化した兵士の嘆きは、湿った風景の中でこそ、いや増すようである。湿った風景は、たんに詩人のフィクションに過ぎないのであろうか。

 ついこのあいだ、11月の中頃、青海湖調査の仲間のひとり、W氏が中国からやって来た。以前から青海湖一帯の地理や中国の気候変動、そして、それが社会に及ぼした影響-災害-を研究してきた人である。この共同調査で得られたデータも含めた研究成果を、拝聴した。

 ショックだったのは、明代の終り頃、1640年前後およそ10年間のとてつもない飢饉である。300日も連続して雨がまったく降らなかった年があったそうである。気温は現在より2度ほど低かったらしい。そのため、明朝が支配した領域に5000万あった人口が、飢饉の後には1000万にまで減ってしまったという。

 北京の故宮紫禁城の裏山・景山で、明の最後の皇帝・崇禎帝が首を縊らざるを得なかったのは、もちろん直接には清・女真族の強大化と李自成軍の侵入のためだったのだが、私がこれまで読んだ本によれば、その主因は政治の腐敗とされていた。あい次いだ飢饉も、それに原因する人災であったとする説が一般的のようである。しかし、自然科学的研究によれば、それはまさに天災だったのである。270年余も続いた明の朝廷の弱体化に、異常気象がとどめを刺したということであろう。

 以上の所論は、文献を詳細に調べた近年の研究による。その気候変動の証拠が北京からはるか離れた奥地の青海湖の底に残っていた、というのがW氏達の結論であった。

 湖の底を調べて、どうしてそのようなことがわかるのか。その理屈を書き出すと、まるで論文になってしまうので、それは避けよう。などと言っているが、この方面では素人の私には、簡潔に説明する力がないのである。しかし、ここまで書いたからには、その一部だけにでも触れておかねばなるまい。

 湖底に積もった泥の中には、周辺の草木の花粉が混じっている。花粉はじつに強固なもので、ちょっとやそっとでは壊れない。その花粉を調べると、草木の種類と繁茂の程度、ひいては、気候を推定できるのである。

 青海湖の底の泥に含まれる花粉を注意深く調べると、この3500年は、寒冷な気候に向かっているらしい。その寒冷化の傾向の中で、湿った気候と乾燥した気候とが交互に繰り返し現れていた。そして、別の研究によれば、青海のような内陸部と黄河・長江沿いの低地部とでは、この変動の現われ方が逆になっていて、しかも、これまでの内陸部の民族と海岸低地部の民族の盛衰は、大きく見れば、この気候変動に呼応しているかのようだという。

 花粉の研究から、青海では降水量が今の倍もあった時期のあったことが推測されたのだが、だとすれば、その頃の青海は、ずっと豊かな地域だったに違いない。

 これから先は、私の想像である。漢の兵士が、はるか青海まで遠征させられたのは、湿った気候のもとで内陸の民族が力を得たために、朝廷が脅威を感じたためであったかもしれない。そのような読み方をすれば、兵車行は優れた詩であるとともに、気候に関する貴重な記録ということになるが、うがち過ぎであろうか。


青海湖(1988年7月撮影)
湖面の標高:約3000m


青海高原の驟雨(1988年7月撮影)
雲が垂れ下がっている


小河川の流量測定(1988年7月撮影)


漢族が残したといわれる遺跡(1988年7月撮影)


蒙古族が残したといわれる遺跡(1988年7月撮影)

  - 1990年12月 -



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