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地球のはなし  別府温泉地球博物館 代表・館長 由佐悠紀

No.3
「富士の白雪、鶴見の霧氷」 

 忘年会シーズンや学期の変わり目などに、ときどき急性アルコール中毒事件が報じられるところから推測すると、今の大学生もコンパと称する酒飲み会をやるらしい。私たちも何かと理由を付けては、コンパをやった。私が大学に入った昭和三十年代の中頃の象徴は六十年安保と売春禁止法の施行ではないかと思うのだけれど、それは置いておくことにする。ともかく、日本全体の経済的水準はまだ低く、一般家庭も学生も、もちろん貧乏だった。

 私の下宿は賄い無しだったが、大学に入ったばかりの頃の月々の生活費は、一切合財で八千円だった。かなりしんどくて、ときにはめし代があやしくなることもあったのに、不思議なことに飲み代はどこからか出現してきた。
 授業料は九千円(月額ではない、年額である)、京都の主要交通機関である市電は五円(ほどなく十円になった)、映画は二番館で四十円ぐらい、生協のライスカレーが三十五円か四十円だったと思う。こんなふうに、あの頃のいくつかのものの値段を現在のと比べていると、変な気がしてくる。「変な」というのは、ほんとにあの頃の方が貧乏だったのか、という疑問である。

 たぶん、今の学生の生活費は私たちの頃の十倍ぐらいだろう。ところが、授業料はおよそ四十倍、市電に代わったバス代は二十倍くらい、映画もそれくらいか。つまり、公共料金の類が、平均よりかなり高くなっているように思うのだ。
 ライスカレーは平均ぐらい。平均より低いのは、卵や煙草のようにどおってことはないものばかりみたいである。と言いながら、煙草喫みの私は大いに助かっているのだから、どおってこともないとは言えないのだが。

 下宿の部屋に(今どき「下宿」と言うのが適当かどうかも疑問である)、テレビ・冷蔵庫・CDデッキ・電話を備え、シャワールームも付いていて…いかにも優雅で豊かそうな学生生活が喧伝されているものの、諸物価の上昇率から見ると、中身は案外そうとばかりとも言えず、貧乏そうだったようにみえる私たちの頃の方が、ある面ではかえって余裕があったような気がしないでもない。
 それで、ひねり出した金でよく飲んだ。飲んでは、わけの分からない議論をし、決して上品とは言えない歌をどなった。
 コンパで必ず出る歌があり、そのひとつがノーエ節「富士の白雪が朝日に融けて三島にそそいで三島女郎衆のお化粧が長くて…」と言うような意味の歌詞が、際限なく続いてゆくこの種の歌の傑作である。もともとの歌の内容はこれとは違うらしいのだが、私はこの替え歌の方しか知らない。

 富士山は活火山である。
 ただし、活火山とか死火山とかいうような分類は、自然科学的にはあまり意味がない。が、ともかく活火山である。
 そして、その広い裾野の果てにあるかつての東海道の宿場町・三島には豊富な湧水が流れている。三島だけに限らない。富士の裾野には同じような湧水が至るところにあって、それはすべて富士山に降った雨や雪から来ているのである。あの歌はたしかに正しい。
 この富士の裾野に湧く水の量を、すべて量った人たちがいる。どんなにして量ったかと言うと、自然に分け入って湧水の状態を観察し、状況に応じていろんな方法を使って測定した。要するに労力と根気の問題である。これ以外にやりようはない。研究室に座り、格好よくコンピューターなんぞをいじっていたって、らちは全然明かないのだ。
 ところが、そんなふうに大変な労力を掛けて得た結果は、たった一枚の数表になるだけである。見た目には貧弱なことこのうえなく、スマートさからはほど遠い。しかし、自然の仕組みを語ってくれるのは、そんなふうに頼りなげな一枚の数表なのである。
 湧水の源は雨水である。これも大変な努力をして、富士山に降る雨(もちろん雪も)の量が見積られた。二つを比べてみたら、湧水は雨水の八割近くもあった。ああそうですか大変な量ですね、で終ると宝の持ち腐れである。
 日本では、雨水の二割から三割はそのまま蒸発して大気に戻ってしまう。だから、富士山に降った雨のうち、蒸発で失われた量を差し引いた残りの量のほとんど全てが、湧水となって湧き出しているという勘定になる。三島にそそいでいるのは、そのほんの一部である。

 太宰 治によれば「富士には月見草がよく似合う」のだそうだ。文学者という人たちは、ほんとにしゃれた言葉を吐く。この詞の前では、趣も何もない散文でしかないけれども、「富士の見えるところに温泉は無い」というのがある。
 活火山とは、新しい火山ということだ。したがって、地下にはまだ熱が残っているだろうから、その近くには温度の高い温泉があってもよさそうなのに、そうではない。
 似たような例はほかにもある。北海道の羊蹄山、鹿児島県の開聞岳、ニュージーランドのエグモント山。こう並べてみると、これらの山々の間には共通した特徴のあることに気付く。別名がなんとか富士と呼ばれる姿の美しいものばかりである。エグモント山も、日本人がニュージーランド富士と呼ぶほどに、富士山そっくりの美しい形をしている。無風流な表現をすれば、単純な格好をしている山々である。
 新しく形が単純なことは、山が破壊されていないということ、つまり、山に降った雨水が地下深くまでしみ込むことのできる割れ目が少ないことを意味する。そのため、雨水は地下深くまで行くことなく、流れ出してしまうのだ。だから、地下にはたとえ熱源があっても水が無いから、その熱が温泉となって地表に現われるチャンスが無いのである。
 富士山麓の湧水のありかたは、このことを教えていたし、富士の見えるところに温泉が無いのにも、ちゃんとした理由があったのである。
 鶴見岳は、こうした山々の対極にある。山の形は複雑で割れ目がたくさんあって、雨水が地下深くまでしみ込むことのできる構造をしている。だから、山麓には別府温泉がある。この魅力的な解釈をしたのは、先輩たちであって、残念ながら私ではない。
 表題から少しは詩的な話を想像された方もあるかもしれない。私もそれを期待して書き始めたのだが、どうも無縁なようである。それに、「鶴見の雨」とすべきなのを、それでは富士の白雪に負けそうなので、水にかわりはないと思って、霧氷とした。それやこれや羊頭狗肉であります。

  - 月刊アドバンス大分 1990年6月 -


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別府温泉地球博物館理事長の由佐悠紀が執筆し、新聞・雑誌などに掲載されたものを順次ご紹介します。