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地球のはなし  別府温泉地球博物館 代表・館長 由佐悠紀

No.27
「コンピュータ」

 ある高名な物理学者が、若い頃、星はなぜ光るのか、そのエネルギーの源は何か、ということに興味を持った。この問を設けたこと自体が天才的であるが、彼はこれを究めるための才能も持ち合わせていた。複雑な思考と計算のすえ(かどうかは確かめようがない、天才だから案外さっさっとやったかもしれない)、それが水素の原子核融合によるという結論に到達したのは、ガールフレンドと約束したデートの時間の直前だったそうである。

 その夜は満点の星であった。自分のほかは誰も知らない宇宙の秘密を解いたことの興奮を抑えながら、誇らしく星空を見上げて、僕はあの星がなぜ光るのか知っているよ、と言った。ロマンチックでメロドラマにでもなりそうな場面である。すごいわね、とかなんとか賞賛の言葉を期待していたかもしれない。しかし、そうはうまく行かないのが現実である。彼女の反応は、あらそう、という一言だけだったのだそうだ。この女性のことを、冷淡とか無教養などと批判するのは筋違いであろう。実社会における科学研究の評価のされかたなんて、たいていはそんなものなのである。

 曲がりなりにも科学者と呼ばれているからには、新発見をするとか、新理論を展開するとかいうようなことに、喜びを見出すべきものであろうけれど、そしてまた、子供の頃に読んだ偉い人の伝記にはそういうことが述べられていたけれども、実際に科学研究に関わってみると、ほんとにそうであり得るのかどうか、大いに疑問である。現実には、そんなことを思いながら研究しているわけではなく、目前に迫った問題をなんとか解決しようとしているに過ぎない。だいいち、20世紀も終わりともなると、新たに発見できることなぞ、そう転がっているようにも思えないのだ。と思うのは、凡人の悲しさかもしれないのであるが。

 とはいえ、たまになにかの現象を、これまでにない方法で説明できたと思うとき、喜びらしきものを感じることがあるのは確かである。ところが、くやしいことに、その気分の高まりが長続きすることはめったにない。つぎの瞬間には、なんだこんなことだったのかと幻滅を覚え、似たような取り扱いをしたのをどこかで見たような気がし、あげくの果ては、そのことを論文にするのが厭になり、怏怏として楽しまない。しかし、研究を職業とし、それによって給料を貰っているからには、公表の義務があるはずだと自分自身に言い聞かせて、いやいやながら書いてみると、そんな論文が思いもかけず評価されることもあるのだから不思議である。

 冒頭のエピソードの主人公は、この発見でガールフレンドの心を捉えることはできなかったらしいのであるが、この時点では、研究者として幸せではなかったかと思う。「この時点では」などと、いささか歯切れがよくないのは、この核融合に関する理論は、水素爆弾の開発という、ひょんな方向にも向かったからである。

 研究行為には、研究者の思いがどうであれ、開発行為そのものという側面がある。何ヶ月か前の号に、開発行為はすべて諸刃の剣であると、なんだか偉そうなことを書いたけれども。このロマンチックな話も、そうであった。

 ところが、私がこのエピソードについて感じたのは、これとはまったく別のことであった。例によって、どうでもよいようなことなのだが、彼はどんな方法でその計算をしたのか、ということである。

 私は、コンピュータを使うのがあまり得意ではない。むしろ、苦手の部類に属する。世間では、地球物理学者なるものは誰でも、数学にもコンピュータにも強いと思われているふしがあるようなのだが、必ずしもそうではない。数学をある程度は理解できても、コンピュータには弱い人間だっているのである。教育を受けた時代のせいもあるのだろう。それじゃ困るでしょうと言われれば、はい困ります、としか言い様がない。

 それでも、やむにやまれず、かなり真剣に使ったことがある。この連載の最初に紹介した南極の塩湖の高温を説明するのに、対流の計算が必要だったからである。対流の計算というのはとてつもなく複雑で、まともにやろうとすると、手計算ではまず不可能である。だから、ようやく発展してきたコンピュータを使ったのだった。

 その頃-昭和48年か49年だったと思う-小松左京のSF『日本沈没』が大ベストセラーであった。もうすっかり常識みたいになったように、地球内部のマントルと呼ばれる部分は、対流運動をしているということになっている。普通の対流する物質は、水や油などの、いわゆる流体である。だからマントルもドロドロに融けているかというと、そうではなく、固体-岩石-である。しかし、ゆっくりと流動する。そのスピードは人間のツメが伸びるのと同じくらいなのだそうだ。そのマントルの流れに異常が起きて、日本列島の下を太平洋側から日本海側へ突き抜けるために、日本列島が沈没するというのであった。その予測をコンピュータグラフィックスでやる場面がある。小説の世界に七面倒臭い理屈なんぞを持ち込むのは、野暮というものであろうが、ちょっと申し述べると、この予測の基礎は対流の計算のはずである。

 ちょうど私は対流の計算をしていて、それがなかなかうまくできないで、四苦八苦していた。それなのに、小説の世界では、私の場合よりずっと複雑そうな問題を計算しているのである。まさに夢物語であった。そんなことができたらさぞ良かろうと、うらやましく思ったり、小説家はイメージだけで仕事ができて結構なものだと、やっかんだりしたことを思い出す。当時のコンピュータの能力では、こと対流に関する限り、かなり単純な場合であっても、大変な時間がかかったのである。

 もちろん、星の君の頃にコンピュータはなかった。計算の頼りになるのは、せいぜい計算尺と歯車を組み合わせた手回しの計算器ぐらいであった。こんなことを言っても、近頃の若い人は、そんなものが存在したことすら知らないかもしれない。私にしたところで、計算尺は学生の頃ほんのしばらく使っただけだし、計算器は手回しの代わりに電動モーターで回すのを使ったのである。

 ところが、そんな時代でも、研究者たちはいろいろな工夫をして、びっくりするほどの計算をやっている。その工夫は、単に計算法の問題ではなかった。ものごとの本質にはどのような要素が大きく関わっているのかを考え、見通しをもって数式を簡略化した上で、計算したのである。

 私たちは今、驚くほどに高速の計算技術をコンピュータによって手に入れた。その計算速度は、さらに上昇していくもののようである。私が悩んだ対流の計算も、ずいぶん楽にできるようになっているのではないかと思う。しかし、この計算技術の獲得によって、何が本質であるかを十分考察することなく、やみくもに計算するだけで事足れりとしている風潮を感じるのだ。コンピュータに優る能力であるはずの洞察力は、だんだん衰えつつあるのではないかと、ときに思うことがある。星の君がどんな方法で計算したのかを問うのは、あながち、どうでもよいようなこと、ではないような気もするのである。

原作者の小松左京が映画「日本沈没」に一瞬出ています。 
 https://www.youtube.com/watch?v=A15t4dxHVlQ 

  - 「大分合同新聞夕刊」  1990年8月 -



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