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地球のはなし  別府温泉地球博物館 代表・館長 由佐悠紀

No.31
「視点」

 「昼下がりの情事」とは、取りようによっては穏やかでない言いようだが、昭和30年代の初めに高校生だった私には、その主題曲・魅惑のワルツとともに、記憶に残っている映画である。

 その頃の映画雑誌では、アメリカでの評論を参考にしたのであろう、ソフィスティケイトという横文字の言葉で、この映画こそそうである、というように紹介していた。都会風にしゃれた、といったほどの意味らしいが、当時はうまい訳語が無かったようで(今でも無い)カタカナをそのまま使っていた。訳語が無いことは、それに相当する概念が日本語に無かったということだから、書き手は困ったに違いない。もちろん、読者のほうも、さっぱり要領を得ない。「昼下がりの情事」に現れているような、しゃれた不思議な雰囲気をそう言うのであろうと思っていただけである。今日のカタカナ語氾濫のはしりだったかもしれない。

 この映画で、ビリー・ワイルダーとI・A・L・ダイアモンドのコンビを憶えた。前者は監督兼脚本家、後者はワイルダーの共同脚本家である。それ以後、この2人の映画は、大いに楽しませてもらうことになった。どのような映画だったかというと、そのほとんどは話の筋立ての単純な喜劇である。

 つい最近、衛星テレビで放送されたらしいから、あらためてご覧になったかたもおられるだろうが、「昼下がりの情事」にしたところで、初老のプレイボーイが少女みたいな娘っ子に翻弄されるという他愛もない話である。こんな風に書くと、あやしげそうであるが、全然そうではない。さわやかな感じの最上級の魅力を備えていた。

 オードリー・ヘプバーン、ゲーリー・クーパー、モーリス・シュバリエといった俳優たちが魅力的だったのはもちろんである。しかし、それと同等あるいはそれ以上に、その筋立てとはおよそ関係のないせりふやしぐさの数々が、この映画を魅力的にしていた。

 「統計によれば、恋愛中の女性の86パーセントはうつぶせに寝る」などというようなせりふを、軽妙洒脱そのものといった風情のシュバリエが、まじめそうにしゃべっていたのなんかは忘れられない。もっとも86パーセントは、私のいいかげんな記憶である。映画で語られたのが、このとおりであったとしたら、私の記憶力もちょっとしたものだ。ビデオでも借りてきて確かめようと思ったが、その余裕がないのは残念である。

 私の理解によれば、この2人組の作者が映画製作の重要な視点としたのは、人々の日常生活の言動の中に出現するおかしさを愛し、それを嗅ぎとり、それを表現することであった。話の筋は、そのための媒体でしかない。彼らは、いわゆる「好み」という内的で抽象的なものを、スクリーンを通して具体化しようとした。芸術とは、こうした側面をもつもののようである。

 自然科学は芸術の対極にあると、よく言われる。

 いささか鮮度が落ちた感があるが、ここ20~30年の間に起こった自然科学の際立った変革のひとつは、プレートテクトニクスという術語で象徴的に表現される、地球観の変革である。当然ながら、プレートテクトニクスの和語は無い。無理に訳すと、「板構造運動学」である。これではますます分からないから、カタカナを使わざるをえない。

 プレートテクトニクスの考え方の基本を作ったのは、今世紀の始め、ドイツのウェゲナーが唱えた大陸移動説である。かつて地球上には、ひとつの巨大な大陸しかなかった。その大陸が、およそ2億年ぐらい前から切れ切れになって動き出し、現在の6つの大陸となり、今もなお動き続けている、という考え方である。

 人類が知性を獲得して以来、いろいろな地球観を私たちは持った。そしてようやく、科学的に不合理ではなさそうな、ダイナミックな考え方を私たちは手に入れた。このアイデアはヨーロッパで生まれたのだが、なぜそうだったのかと考えることがある。

 私たちは、日々の生活で、様々な地図を利用する。それは、別府の住宅図であり、大分県一村一品の図であり、九州道路地図であり、ともかく地図のない生活は考えられない。

 海外旅行が簡単に楽にできるようになって、世界地図を利用する機会も増えた。不断に私たちが見ている世界地図では、わが日本国がそのほぼ中央に位置しているのが普通である。もう少し国際的に言えば、世界の中心は太平洋であるように描かれていて、ヨーロッパ・アフリカと南北のアメリカ大陸は、左右に遠く離れている。極東という言い方は、私たちにしてみれば、アメリカ東岸こそがふさわしく、ヨーロッパは極西である。

 1492年にコロンブス一行が大西洋を横切って、ようやく世界地図が完成する。ヨーロッパの人々は、大西洋を挟んで、彼らが言うところの新世界アメリカを西に、旧世界ヨーロッパ・アフリカを東に配した。その地図は多くの人を刺激したに違いない。ある者は宝物を夢見て侵略を目論み、ある者は未知の世界の探検に乗り出し、ある者はその地図を眺め見つめた。

 見つめた人の中にフランシス・ベーコンがいた。ニュートンより1世代前を生き、真理に迫るには観察と実験が重要だと主張して、近代科学研究に道しるべを与えたとされる哲学者である。シェークスピアは彼のペンネームだという珍説があることからしても、よほど偉い人だったに違いない。

 大西洋が真ん中を占める世界地図を、ベーコンは観察した。そして大西洋の両側の海岸線があまりにも符号し合うことに気が付いた。南アメリカとアフリカはまるで雄型と雌型ではないか、偶然と言うにはあまりにも似すぎていると指摘して、それを考察することを後世にゆだねた。300年後のウェゲナーが、それに応えたのである。

 この発想は、太平洋を中心とした地図からは、生まれてきそうに思えない。大西洋の両側に大陸を配置したヨーロッパ流の地図が、この画期的アイデアをもたらしたと思うのだ。つまり、地図を通しての視覚による具体的認識が、プレートテクトニクスという抽象的概念になったと、私は理解する。

 芸術と自然科学の違いは、一方は抽象から具体化を目指し、他方は具体から抽象化を志向するという、方向の違いにすぎないのではないだろうか。しかし、この違いは、簡単には取り替えられない本質的違いのようでもある。とはいえ、それぞれの視点の置きどころが、それぞれの楽しさの源泉であるのに変わりはないと思いたい。

 最近の世界の動きを見ていると、精神的地球も現実の地球も、ともに、どこかに向かって転がり落ちているような気がします。これには、情報機構の異常な発達が関与しているに違いありません。なんとかこれに抵抗し、スローダウンを心掛けたいと思うのですが、どうでしょうか?

 

※映画のあらすじ「昼下がりの情事」Movie WalkerのHP
 https://movie.walkerplus.com/mv7558/

  - 「大分合同新聞」 1991年1月-



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