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地球のはなし  別府温泉地球博物館 代表・館長 由佐悠紀

No.34
「瓜生島と高松史朗さん」

 私が別府に来たのは昭和41年の5月だったから、もう4半世紀になろうとしている。それまでは、大学院で海洋物理学の勉強をしていた。研究費の乏しい時代であったが(今だって乏しいが)、ようやくまとまった予算が付くようになり、私たちは和歌山県の白浜沖の田辺湾に観測塔を建てて、水温などの連続観測を始めた。日本で最初の本格的な海洋観測塔であった。私に与えられたテーマはその記録の整理と解析だったので、夏休みになるのを待ち兼ねるようにして、観測塔にデータを採りに出かけた。と称しているが、半分は遊びというのが実情だったのは、ご多分にもれない。なにしろ若かったのだ。

 それが、別府に来て、成り行きで地下水や温泉に関わりあうようになった。同じ水であっても、海水と地下水とでは、その流れを記述する方程式が一見したところまったく別のもののように見え、研究の具体的手法もかなり違った。だから、勉強をやりなおさねばならなかった。それに、地下水や温泉の現象には、その土地その土地のなりたちが大きく関係しているので、別府の地質など専門外のこともある程度は知らねばならない。
 そういうわけで、来たばかりの頃はいろんな文献に目を通すことで過ごしたのだが、その中に別府湾に浮かんでいた島々の話があった。別府湾の周りに住む人々にとってはおなじみの、瓜生島や久光島の伝説である。しかし、私が見た文献の中では、それは単なる伝説ではなかった。京都大学地球物理学教室がかつて出版していた『地球物理』という学術研究誌には、瓜生島沈没のことが論述されていたし、その絵には島々の想像図さえ載っていたのである。

 かなり強い印象を受けたけれど、まさかそんな、というのが私の偽らない感じであった。眉つばものだとさえ思った。だいいち、当時瓜生島があったとされていた場所は別府湾の一番深い所にあった。たかだか400年昔のごく最近の出来事ではないか、島のあとかたがすべて無くなってしまう筈はない。伝説は伝説、それ以上のものではないと思っていた。

 私たちの研究所を訪ねて来られた加藤知弘先生を初めて紹介されたのは、昭和51年の暑い日だったと思う。瓜生島の現地調査をするのでメンバーにならないか、という勧誘であった。そのとき私はほとんど口を開かなかったので、加藤先生は困られたそうである。

 私自身は、思ってもいなかった話にとまどい、本気でこんなことを考えておられるのだろうかと思い、何をしゃべったらよいのか分からなかった記憶があるので、たぶんそうだったのだろう。
 結局参加することにしたのだが、瓜生島のことは信じていないうえに、私の専門とはまるで関係がなさそうだし、まったく遊びのつもりだった。とは言え、このわけの分からない調査に、わけが分からないからこそ、かなり魅力を感じていたには違いなかった。

 そして、はじめての打ち合わせのとき、マリーンパレスの館長になっておられた高松さんに久し振りで出会ったのだった。というのは、私が白浜に通っていたころ、そこにある京大の臨界実験所に高松さんが居られたのである。高松さんの専門は魚だから、私との間に研究上のつながりは全然なかったのだが、十年も経ってひょんなところで接点が生じることになった。

 瓜生島についての文献の調査は、すでに加藤先生がほとんど済ませておられた。瓜生島沈没の伝説が、豊後竹田の岡藩の港であった沖の浜港の消滅から生まれたことは確かなことのようである。大友氏の時代には南蛮船が入港し、フランシスコ・ザビエルも訪れた有名な港で、大分市の五号埋立地の沖合い付近にあったらしい。その港が1596年9月4日に起こった地震と、それに続く津波で無くなってしまったのである。その証拠を探索するのが現地調査の目的であり、私たち自然科学の分野のメンバーに期待されていたのは、その方法を提出することだったのだと思う。

 この調査の最大のヒットは、成果もさることながら、音波を利用した地層探査機を使ったことだと、私は思っている。水底の遺跡の調査にこの種の探査機が使われたのは、たぶん、日本では最初、世界的にみても非常に珍しいことではなかったかと思う。このアイデアを初めに思いついたのは、誰だったのだろう。メンバーの議論の中から飛び出してきたのだから、そんなことの詮索はどうでもいいことだが、海底下の地層を調べる機械はありませんかねと口火をきったのは、どうも高松さんだったような気がするのだ。

 その気になって探してみると、たいてい見つかるものである。念願の地層探査機が別府湾に登場したのは、昭和52年の9月であった。この威力は素晴らしかった。初めての調査で、まさに五号埋立地沖の海底に地崩れの跡を見つけたのである。
 自然科学の研究者の精神構造というのは、やっかいなものだと思う。うまい話しは、まず疑ってみるという意地悪さが習い性になっているのだ。人はそれを慎重と表現する。このときも、私の内心はそうであった。音波の記録は地崩れを指し示しているのに、どこかに落とし穴があるのではないかと疑い続け、沖の浜港の存在と消滅を確信するまでには、しばらくの時間がかかったのだから、幸せではない。

 それから3年後、地震の跡を探そうと別府湾に何本かの線を引き、それに沿って船を走らせて音波を発射した。日出沖で数多くの断層が見つかったときは、さすがに興奮を抑えることができなかった。しかも、それらはごく最近まで動いて、地震を起こした形跡があったのである。
 しかし、この調査はすんなりと行ったわけではなかった。初めのうちは、いくら機械の感度を上げてみても、記録がぼやけてはっきりしない。調べてみると、細長いチューブの中に油漬けにしてセットしてある受信器の一部が断線していた。機械の故障というのは、そんな単純なことが多いのである。

 意を決して分解した。断線部分を修理してチューブに納め、取り出してあった油を注いだら、こぼしてしまって量が足らなくなった。このときの高松さんの行動を、私は忘れることができない。車に飛び乗ってどこかに行ったかと思うと、スーパーで買ってきたなどと言いながらサラダ油のポリビンを下げて帰ってきた。サラダ油を使うなんて、私には思いもつかなかった。そうして、後に多くの研究者を別府湾に引き付けることになるきっかけを作った見事な記録が得られたのである。
 柔軟な思考の、また、果断な行動の人であった。この元旦の未明、不慮の事故で帰らぬ人となった。あまりにも突然のことだった。
 私はまだ、そのことを実感できないでいる。

※参考:別府湾の地下構造 ー沖の浜港の消滅によせてー
http://www.beppumuseum.jp/archives/chikakouzou.html

  - 「大分合同新聞」 1990年2月-



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