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地球のはなし  別府温泉地球博物館 代表・館長 由佐悠紀

No.48
中国の塩湖・水・地熱見聞記Ⅱ
運城の塩湖・解池

 太原から黄河の支流・汾水に沿って、南南西におよそ7時間走ると、運城という町に着く。黄土高原を南下してきた黄河本流が、東行する渭水と合流して直角に向きを東に変えるあたり、函谷関も近い。
 私達の目的は、ここにある塩湖を訪問することであり、私自身は、塩湖における熱塩成層の観測を計画していた。というのは、それまで南極の塩湖で、温度と塩分濃度の分布によって生ずる対流(熱塩対流という)について面白い現象を見出していたので、比較のために、他地域の塩湖の状態も調べてみたいと思っていたからである。

 この塩湖は、その名を解池または解州津という。湖面標高320m、幅5km、長さ30kmで、北東から南西へと細長い。湖の北西側は比高約40mの台地によって境され、運城市街はこの大地の上にある。南東側は、扇状地がなだらかなスロープを見せて、プレカンブリアの片麻岩から成る標高1000mの中条山麓に至る。

 などと書きはじめると、予備知識があったようだけれども、実際は、その大きさも深さも知らなかったのである。以前は、かなりの日本人がこの地を訪れたことであろうに、湖のことがほとんど伝えられていないのは、どういうわけなのか。

 ともあれ、私達は喜びいさんで台地の南端に立った。眼下に水面が光っている。しかし、その水面はひと続きのものではなく、たくさんのプールが寄り集まっているように見え、私が想像していた光景からはほど遠い。説明を聞いてようやく合点したのだが、そのプールひとつひとつが塩田なのであった。しかも驚いたことに、湖の約半分にあたる北西部は完全に塩田化され、残りの南東部は扇状地から流入する土砂の沈殿池となっていて、湖全体が広大な製塩場と呼ぶにふさわしい状態なのである。

 水深は浅いし、これほどまでに人の手がはいっていては、熱塩成層の観測は諦めざるを得ない。正直なところ、失望した。しかし、別の意味で、この塩湖訪問には印象深いものがあった。

 この解池では、古くから食塩の採取が行われてきた。史書への正式な記載は唐代に始まるのであるが、製塩の歴史は、それよりずっと以前、堯・舜・禹の時代まで遡ることができるのだという。堯・舜・禹が実在したかどうかは別にしても、実に4000年以上にわたる、気の遠くなるような人々の営みである。
 汾水に沿う鉄道沿線の諸都市の中に、臨汾・安邑・蒲州の名を見ることができる。臨汾は平陽とも言った。聖王・堯の都であったとされる。蒲州は彼から王位を禅譲された舜の都、安邑は舜から王位を受け継ぎ、中国最初の世襲王朝と言われる夏の祖となった禹の都と伝えられている。

 これらのうち、もっとも北にある臨汾は、解池から200kmほど離れているけれども、蒲州と安邑はすぐそばにある。とくに安邑は運城に隣接していて、解池の畔にあると言ってもよい。

 私達は学校で、中国文明が黄河の賜であることを習った。それは確かなことであるに違いない。しかし、この土地に来て、古代の都が解池の近くに建設されていたという言い伝えを知り、塩の供給もまた、民族と文明の発展に重要な役割を果たしたであろうことを実感したのであった。

 こういう風に、有史以前から開かれていた土地であるから、古い逸話にはことかかない。そのひとつ、解池北西岸の中ほどに、啞姑泉という名の泉がある。ほぼ円形で、直径1m余の変てつもない小さな泉であるが、聞けば、かの黄帝が発見したのだという。私達にとって、黄帝とは伝説上の人物でしかない。しかし、この土地の人々には身近な存在なのであろう。

 塩は代々の朝廷が独占的に取り扱い、それからあがる収入は重要な財源であった。唐の時代には、解池を管理する役人が朝廷から派遣される慣わしであったし、李世民の弟もこの地を訪れたことがあるのだそうな。626年のクーデターで殺された李元吉のことであろうか。そのとき、湖の畔に廟を建て、製塩を司る三体の神、すなわち太陽と風と池の神を祀ったのだという。今も台地の端の、湖を一望する場所に、古めいて崩れ落ちそうな池神廟が建っている。(まさか、唐代の建物ではあるまいが。)
 塩の製造と販売が朝廷の独占事業であったために、利を求めて抜け駆けする者があとを絶たなかったらしい。徒党を組んで略奪に来る者もあったであろう。塩湖を取り囲む禁垟と呼ばれる古い土塁は、そのような略奪者から塩田を守るためのものであったかもしれない。

 三国志の英雄・関羽は、この地の出身である。そのため、もっとも規模が大きく、また由緒正しい(と、地元の人は胸を張った)関帝廟がある。硬そうな庭石には、関羽が薙刀を叩きつけて出来たという一条の傷が付いていたが、真偽のほどは不明である。その関羽が故郷を出奔したのは、塩をめぐるトラブルのせいだったという説がある。人格高潔さながら神のごとき関羽の、何やら人間くさい一面をうかがわせて面白い。唐の滅亡を早めた黄巣も、もともとは禁制の塩の密売者であったと言うではないか。塩の話が史書や物語に登場することは多いとは言えないけれども、塩をめぐる攻防も、歴史を動かした要素のひとつとして重要ではないかと思ったりする。

ところで、製塩の神が太陽と風と池というのは、解池での製塩法を象徴的に表していて、興味深い。その方法を簡単に紹介しておこう。

 塩湖底の地下は、塩分を多量に含む堆積層である。この堆積層に井戸を掘り、水を注入して塩分を溶かし出し、汲み上げた塩水を塩田に導いて水分を蒸発させ、析出した塩を採取する。唐の昔、あるいはそれ以前から、この製塩法の基本は変わらないのだそうだ。

 池(水)は塩分を溶出と貯留に不可欠であり、太陽と風は蒸発を促進する。池と太陽の大切さは当然のこととして、昔の人々は、水面からの蒸発に対する風の効果の重要性を、すでに見抜いていたのであった。

 4000年以上にわたって食塩を採り続けてきたので、塩湖の水質も固定堆積物中の塩の組成も、本来のものからかなり変質していると考えられる。実際、固定化30m深付近には、硫酸ナトリウムと硫酸マグネシウムが複塩となって濃縮されている。

 現在は、山西省塩化局がこの塩湖を管理し、従来の蒸発濃縮法に加えて、冬季には低温析出法によっても製塩を行っている。食塩の年産量は6.5万トンとそれほど多くなく、主力は硫酸ナトリウムであり、年産28万トンだという。将来は硫酸マグネシウムの採取も計画しているとのことであった。

 では、この塩の本来の起源は何であるのか。地質学的には、解池を含む幅50kmの運城盆地は、中新世(500万~2,300万年以前)の断層運動によって形成され、盆地を埋める堆積層の厚さは6000mにも及ぶと見積もられている。また、湖がもっとも拡大した時代の最高水位は、現湖面より330mほど高く、盆地を完全に満たすほどに巨大なものであった。そして、現在の水位にまで低下したのは更新世中期(数十万年以前)とみられている。一方、文革以前に行われた掘削調査によれば、1000m以浅の三つの層から有孔虫化石が発見されており、第三紀以降(6,600万年前以降)、少なくとも三回は海(渤海)とつながったことがあったらしい。したがって、湖の縮小にともなう陸成塩分の濃縮を無視できないとしても、主要な塩の起源は海水ではないかと思われる、しかし、これについては、なおいっそうの調査研究が待たれるところである。


解池の塩田(1981年7月撮影)


伝説の帝王・黄帝が発見したと伝えられる唖姑泉(1981年7月撮影)
高濃度の塩化物泉が湧出する


安邑(1981年7月撮影)
夏王朝の祖・禹が都を置いたと伝えられる

ー地熱エネルギー、10巻4号(通巻32号)、1985)に掲載ー



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別府温泉地球博物館理事長の由佐悠紀が執筆し、新聞・雑誌などに掲載されたものから温泉に係るものを順次ご紹介します。