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2018年4月5日更新

第8回
あぶらくまはちと由布院

 「観光地は、奥行きがなければ一流じゃない」というのが油屋熊八の考えだったそうです。別府温泉がいくら魅力的でも、その先に綠ゆたかな由布院温泉があります、さらにその先に広大なじゅうはん高原がひろがります、もっと走れば阿蘇山もあります、異国情緒をたたえた長崎の街を見ることもできますよ・・となって初めて別府温泉は一流の条件を備えたことになるというのです。
 これが明治30(1897)年より4年間、北はカナダから南はメキシコまでアメリカ大陸を体験した油屋熊八の、スケール感のある観光地構想でした。



ダッジ・ブラザーズにかなでこを積んで

 油屋熊八が別府へ来たのはたぶん明治42年だっただろう、と親しかったとうかおる さんは言っています。衛藤馨さんは 、戦前の大分新聞(大分合同新聞の前身)記者時代に『党人郷記』を書き戦後に大分新聞を復刊 した衛藤 あんさんの兄で、 昭和8年に月2回発行の『別府』という雑誌を創刊、同12年には『別府情緒』と題する単行本も出しており、 しょっちゅう熊八のところに出入りしていたのだそうです。衛藤馨さんは“生きている熊八辞典”みたいな方でした。
 別府へ来た油屋熊八は、まだ道も通っていなかった田んぼの中の流川通りで小さな亀の井旅館を経営しはじめますが、あふれる人脈を生かして一流の客を集め、数年で西洋風な亀の井ホテルに仕上げて行きます。送迎用の乗り物も人力車ではなく輸入の外国車。やがて由布院温泉に目をつけて高級車ダッジ・ブラザーズに人夫とかなでこを積み、落石だらけの山道を、石を割りながら由布院にたどり着いたといいます。
 つまり、別府~由布院間の最初の自動車道開発は熊八の仕事だったわけです。



油屋熊八

昭和10年代の由布院、金鱗湖(BAHAN10号)

へんな二人づれ

 ちょうど熊八が別府で活躍しはじめた頃、不老町に小さな骨董屋を出していた人がいました。通りに面した飾り棚に茶花が活けてある、そのしつらいに、ただ者ではない気配を感じて熊八が店に入って行ったのが、油屋熊八となかろうの出会いだったと伝えられています。
 『へんな二人づれだった。どちらも中年すぎ。一人は頭が禿げていて、耳の上にわずかに黒いものがのこっている。まん丸い眼鏡をかけ、いかり肩でガニ股。もう一人は小肥りで、半白の髪をうしろに撫でつけ、品のいい旦那風。』(池内紀『二列目の人生』集英社文庫)
 すっかり意気投合した二人は、熊八が大阪の資産家に話を持ち込んできんりん周辺の土地を買い、中谷巳次郎が数寄屋風の小さな宿を設計し道楽の限りを尽くした骨董を持ち込んで、亀の井別荘が出来上がったわけです。 
 中谷巳次郎について『二列目の人生』はこう書いています。
 『もう一人、小肥りの旦那風は中谷巳次郎といった。これまた歌舞伎に出てきそうで、小悪党ふぜいにぴったりである。いかにも、えたいがしれない。レッキとした大庄屋の家に生まれ、いずれは大旦那になるはずの人物だった。それが五十をこえて、夜逃げ同然に故里を捨て、身一つで別府に流れてきた。』そうなった理由が、道楽三昧。
 中谷巳次郎は加賀温泉の十か村庄屋の家に生まれ、建築、造園、料理、骨董、茶、謡などの道楽に資産を遣い果たし、わずかに残った金を持って大阪へ出た。そして大阪駅で名の通った画家に偶然出会い、その人が言った「九州の別府へ行きなさい。別府はあなたのような人を探している新興の町だ」という言葉にしたがって別府へ来たといいます。
 資産を失ったとはいえ、蔵にあった骨董品を送らせたら、たちまち骨董屋が開けるところが大庄屋の実力でしょう。そして、巳次郎さんは熊八さんと出会うわけです。
 『二列目の人生』では、中谷巳次郎はさんじんの二列目にせられていて、華やかに世に出た魯山人にくらべ、後列にいる『無口な魯山人』というタイトルがつけられています。
 この無口な魯山人が亀の井別荘の主になってくれれば、どんなうるさい客がやってきても大丈夫である、と熊八は考えたのでしょう。
 五・一五事件で暗殺された内閣総理大臣いぬかいつよしは、暗殺される2年前の昭和5年、立憲政友会総裁の頃、亀の井別荘の客となりましたが、「茶房を建てるなら私が名前を付けよう」と木版に『ちんりゅうてい』と揮毫してくれた、その文字が今も残されているそうです。枕流亭の建物はは犬養毅暗殺の翌年昭和8年に着工され、昭和9年に竣工しています。
 いまや、由布院温泉は亀の井別荘の中谷健太郎氏、玉の湯の溝口薫平氏などの努力で全国的に有名な観光地となっていますが、どうやら、もとをたどれば熊八さんが巳次郎さんを誘ったことに端を発するのではないでしょうか。



晩年の中谷巳次郎(中谷家所蔵)

熊八の頭を縫った人

 昭和の時代に大分県で発行された月刊アドバンス大分、昭和52年7月号に由布院の日野医院・日野俊子先生の記事が載っています。
 日野俊子先生は記事の当時、81歳にして現役の医師でした。
 東京女医学校で学んだ俊子先生が由布院に帰って家を継いだのがその時から52年前、ちょうど昭和の初年ですね。
 で、アドバンス大分の記述です。
 『日野医院を継いでまもなく、すぐ近くの橋のたもとで落馬した男がかつぎ込まれた。当時は乗り物が馬かカゴだったそうだ。その男は頭を切っていたので、すぐに治療にとりかかっていると、一緒についてきた連中が「先生はどこだ、先生はどこだ」と騒ぎつづけた。目の前の若い女性が「先生」であることにしばらく気づかなかったのだそうだ。
 むこうも女医に驚いたらしいが、俊子先生の方も驚いたのは、その男のところに続々と知名士の見舞客がかけつけて、聞いてみると、頭を切ったのは、かの有名なる油屋熊八だった、という。
 頭を切ったとき油屋熊八はすでに禿げてましたかと俊子先生に尋ねると、「まぁ禿げてたでしょう。毛があれば、あんなに切らん」と言って愉快そうに笑った。』
豪快な日野俊子先生今は無く、明治27年に建てられたという洋館の日野医院は国指定重要文化財になっています。



阿蘇山 昭和6年、阿蘇山に登った熊八さん。熊八の後方の 二人は中谷巳次郎の長男、宇兵衛さんと妻の武子さん。(雪の博士 中谷宇吉郎の妹) (BAHAN10号)

長湯温泉 昭和2年、長湯温泉の旧家・甲斐家を訪れた熊八の一行。熊八さんと並んでいるのが三味線の名手佐藤トマル。右で腕組みをしているのが当時の流行作家 やまたい。(BAHAN10号)

久住・飯田高原 衛藤馨さんが所蔵しておられた写真には、かんごくに入る熊八とうめぼんぺいがうつっています。久住高原へは馬で行ったらしく、背景の男たちと馬は西部劇ふうですね。(月刊アドバンス大分 昭和50年7月号)

日野医院の日野俊子先生 (月刊アドバンス大分 昭和52年7月号)


『二列目の人生』 集英社文庫

 
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