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別府温泉辞典

あ か さ た な は ま や ら わ

最初の掘削

さいしょのくっさく

 元禄7(1694)年の春、豊後を旅した福岡の医学者/本草学者・貝原益軒(1630~1714)が、その著「豊国紀行」の4月1日の項に、亀川・鉄輪・別府などには温泉が湧き、利用されていることを詳しく記しています(安部,1987)。その頃の温泉はもちろん自然湧出泉(温泉の種類を参照)、別府には民家の宅中に10ヶ所あったようです。時代は下って、明治初年に至っても状況は似たようなもので、別府に9ヶ所、浜脇に2ヶ所、併せて11ヶ所でした(別府地球物理学研究所,1937:カテゴリー温泉科学第7回を参照)。
 ところが、明治38年の鉱山監督官・松田繁の調査報告書(松田,1905;カテゴリーお話の佃煮第1回、および、カテゴリー温泉科学第3回を参照)では、別府と浜脇で198ヶ所の温泉が挙げられています。すなわち、この間に、多数の温泉が開発されたのです。
 松田の報告では、温泉の形態を「掘湯」と「穿湯」の2種類に分類しています。掘湯とは、地面を掘り下げて湯槽を作り、その底から湧き出させるもので、別府に21ヶ所、浜脇に4ヶ所ありました。執筆者は、1970年代に由布院温泉で、この種の自然湧出の温泉に入ったことがあります。
 他方、穿湯とは、地面から小口径の孔を穿って地下の湯を取り出すもので、松田の報告では、別府に145ヶ所、浜脇に28ヶ所が挙げられています。これらは、明治時代に入って登場した新しい形態の温泉井戸です。

 最初の穿井(掘削)は明治12(1879)年4月、萬屋呉服店の神澤儀助(萬屋儀助)が行いました。場所は秋葉町の秋葉神社の北方辺り、深さは12尺(約4m)です(外山;2004,2012)。穿井の方法は、上総掘りとされています。ただし、当時の上総掘りは原型的なもので、先端に錐を付けた鉄棒を、10人ほどの作業員が「やぐら」・「てこ」・「万力」などを使ってこじ上げ、3尺ほどの高さから落下させるというようなものでした。本事典に紹介されている洗練された技術体系は、明治29(1896)年頃に完成したと言われています。


秋葉神社界隈:南から北を望む.手前の道は拡幅された秋葉通り.
北への道は旧国道.この写真の手前側は官公庁の中心部であった.
萬屋呉服店は、白い車の辺りにあったようだ.


 この頃、長野県上諏訪温泉でも、「安房掘り」という方法で温泉井が掘削されました(稲垣、1990)。明治13(1880)年のことですから、別府の方が1年早かったことになります。おそらく、神澤儀助の穿湯は、温泉としては、日本はもとより世界でも最初の掘削泉温泉の種類を参照)だったのではないかと思われます。

神澤家の「湯突き」と上総掘り異聞
 小口径の井戸掘り技術は、飛鳥時代(7世紀頃)に中国から伝えられ、奈良盆地で最初の井戸が掘られたという記録があるそうである。それから千年後、享保年間(1716~1735)に、江戸で初めて深さ30mほどの掘抜き井戸が馬場先門付近で掘られた。その後、大阪で井戸掘りの工具が改良されて、その技術「大坂掘り」が各地に広まり、地名にちなんだ井戸掘り技術が生まれることとなった。「上総掘り」もその一つで、ほかに「丹波掘り」や「名古屋掘り」があった〔村下(1966)などによる〕。「安房掘り」もそうであろう。
 神澤儀助は、明治の初めころ秋葉町に萬屋呉服店を開いたが、もともとは丹波の小間物行商人であったという。もしかしたら、神澤儀助本人は、「上総掘り」ではなく、「丹波掘り」で湯突きをしたつもりだったかもしれない。
 なお、松田の報告書には、同じ場所で明治35年に掘削された深さ11間(約20m)の穿湯が挙げてあり、記事として「以前他ニ穿井セシモ漸次減量セシニ依リ上記ノモノニ掘リ換ヘタリ」と記されている。この2代目の井戸の所有者は神澤儀助の長男・神澤又市郎で、後に初代の別府市長を務めた。
(注:上に出ている町名は、現在のものである。)

執筆者由佐悠紀)
参考文献

安部 巌(1987):「別府温泉湯治場大事典」、創思社出版.
稲垣益次(1990):温泉今昔物語 その5(上諏訪温泉)、地熱エネルギー、15巻.
別府地球物理学研究所(1937):別府旧市内温泉概観(Ⅰ)、地球物理、1巻1号.
外山健一(2004):別府温泉「突き湯第一号」解明、別府史談、18号.
外山健一(2012):別府における「上総掘り」について、別府史談、25号.
村下敏夫(1966):水井戸の話(2)井戸の歴史、地質ニュース、1966年3月号.