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2013年4月9日更新

第4回
柳原白蓮の恋

赤銅御殿


「伊藤別荘 赤銅御殿庭園」
(写真提供今日新聞)

「伊藤別荘 赤銅御殿」
(写真提供今日新聞)

 そのお屋敷は別府市青山、流川通り12丁目あたりにありました。1979年に取り壊される数年前、私は雑誌のグラビア用に撮影したことがあります。5000坪、1・65ヘクタールの敷地。京都や大阪から集められた一流の大工や庭師の手になる洗練された日本家屋と起伏のある優雅な庭園。あちこちの板ふすまには帝展特選画家 阿部春峰がそれぞれ違う趣向の絵を描き、建具も照明もトイレの陶器も特注品という贅をつくしたものでした。もちろん、お風呂は温泉です。この別荘は筑豊の炭鉱王伊藤伝右衛門が高貴な美しい妻・柳原白蓮のために建てたと言われ、別府の人たちは伊藤別荘と呼んでいましたが、のち旅館になってから赤銅御殿(あかがねごてん)という通称で呼ばれるようになりました。
 柳原白蓮(やなぎはらびゃくれん)は本名柳原燁子(あきこ)。大正天皇の生母柳原二位の局(つぼね)の姪という大層なお家柄の女性である上に大正三美人の一人と謳われた美貌の持ち主、さらに佐々木信綱に師事して心情を叩きつけるような激しい歌をつくる歌人でした。
 しかしその私生活は幸福とは言えなかったようで、16歳で子爵家の息子と結婚させられ4年後に離婚。そして27歳のとき、筑豊の炭鉱王伊藤伝右衛門の後妻にさせられています。伝右衛門は50歳。飛ぶ鳥を落とす勢いの炭鉱成り金で、筑豊の名士、この時代にフィアットを乗り回していたそうです。



訪れた人


柳原白蓮
(大分みらい信用金庫80周年
記念誌より)

 物質的には豊かでも心が満たされない生活の中で、別府の伊藤別荘・赤銅御殿には白蓮を訪ねてさまざまな客が訪れ、サロンを形成していたと言われます。伝右衛門との結婚から7年後の大正7年(1918)、白蓮は雑誌『解放』に戯曲『指鬘外道(しまんげどう)』を連載して高い評価を得、劇団が上演する許可をいただきたいという手紙が編集者から届いていました。
 その手紙の主が宮崎龍介、孫文の辛亥革命を援けた宮崎㴞天(とうてん)の長男。東大法科在学中から労働運動に深く関わり雑誌『解放』の主筆を若くして務める実力派でした。交流があった人たちには吉野作造、大杉栄、賀川豊彦などその道の有名人の名が見えます。大正9年(1920)宮崎龍介は別府の伊藤別荘を訪れてはじめて白蓮に会い、以後、白蓮は上京のたびに逢瀬を重ねたとされています。



前代未聞の絶縁状


白蓮と炭鉱王 伊藤伝右衛門
(大分みらい信用金庫80周年記念誌より)

 そしてついに大正10年(1921)10月20日、伝右衛門とともに上京した白蓮は東京で姿を隠し、2日後の10月22日、大阪朝日新聞夕刊に『筑紫の女王柳原白蓮女史失踪』の記事とともに白蓮の名前で伊藤伝右衛門に突き付けた公開絶縁状が掲載され、日本中が大変な騒ぎになりました。人妻が他の男と情を交わしただけで『姦通罪』が適用された時代ですから、白蓮に対する日本中の非難がゴウゴウ。しかし離別を新聞に公表するという前代未聞の逆手戦法は、世間の目にさらすことで伝右衛門サイドの力まかせの奪還を封じたのだと思われます。通常のやり方では離婚も家出も叶わないと見て、宮崎龍介の回りの人たちが入念なシナリオを書いたのでしょう。
 『私は金力を以って女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます』と公開絶縁状は宣言しています。
 伝右衛門の方も殴られっぱなしでは気が済まなかったのか、2日後の10月24日から4回にわたり大阪毎日新聞に『絶縁状を読みて燁子(あき子)に与ふ』という手記を連載しています。それによるとそもそも燁子(あき子)との結婚は自分が望んだわけではなく、あっと言う間に柳原家から押し付けられたものであること。結婚式が終わって車で家に帰ると燁子(あき子)が泣きやまない、『その涙は自動車に乗る時、一平民である俺が華族出の妻を後にして少しも尊敬せず、いたわらず、先に乗ったと云ふ事がお前の自尊心を傷つけ、そのために流す悔し涙と云ふ事が判った。実際、これは大変な妻を貰ったと思った。』と書いています。自尊心が強く、事あるごとに泣くので家の中がすっかり暗くなってしまった、と伝右衛門も結婚生活の苦衷を詳細に述べています。新聞各紙はこぞって後追い記事を書き、日本中がこのニュースの面白さに夢中になったため、11月4日、時の総理大臣原敬が東京駅丸の内コンコースで刺殺された記事さえ一面の片隅になったほどだったと言います。



白蓮の実力と赤銅御殿


晩年の白蓮
(写真提供今日新聞)

 東京で宮崎龍介と結婚し二人の子どもを育てた白蓮は、夫が肺結核で倒れた後、貧しい中で原稿を書き続けて一家の生活を支え、一人息子が戦死した後は息子を戦争で亡くした全国の母たちの心の支えとなって、『悲母の会』の発足に働き、この会がやがて『国際悲母の会』という平和運動へ、そして『国際連邦婦人部』の設立へと発展して行きました。
 別府の伊藤別荘は昭和16年、海軍水交社に接収され、敗戦後は米軍に接収されました。当時、日本建築や庭園にペンキを塗ったりするアメリカ人が多い中で伊藤別荘は日本建築に理解を持つ教養のある軍人に恵まれ、ほぼ無傷のまま返還されたのでした。その後、別府の首藤家によってホテル赤銅御殿として経営されましたが、売却され、1979年取り壊されて現在の住宅地となりました。



これがホントの美人の湯


大正三美人のうちの二人
九条武子と柳原白蓮
(大分みらい信用金庫80周年記念誌より)

 白蓮が入った伊藤別荘の温泉はどんな泉質だったのでしょうか。なにしろこのお風呂には大正三美人のうち二人まで、つまり主人公の柳原白蓮とお友達の九条男爵夫人武子が入っているわけですから、これこそホンモノの美人の湯と言えます。由佐悠紀先生によると昭和57年に『赤銅荘園団地給湯所』の泉質を大分県公害分析センターが調べたものがあり、これが一番近いのではないかということです。それによると
  泉温55.0℃ pH7.7
  泉質 ナトリウム・マグネシウム・カルシウム  炭酸水素塩・塩化物泉  
となっています。「弱アルカリ性で炭酸水素塩泉系なので、柔らかい感じの湯だったろうと思われます。美人の湯にはこういう型の温泉が多いような気がします」というのが由佐先生の添え書きです。

 
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