博物館についてスケジュールカテゴリー別府温泉事典リンク集
HOMEカテゴリーお話の佃煮>油屋熊八と女性たち
2017年12月25日更新

第8回
油屋熊八と女性たち

ふるさと宇和島

 油屋熊八の生まれ故郷へ行って調査した人は、私の知る限りでは佐賀忠男さんだけです。佐賀忠男さんは『ドキュメント別府と占領軍』という優れた著書を遺した人です。
 佐賀さんによると熊八のお墓は愛媛県宇和島市妙典寺前の光国禅寺にあります。
このお寺の過去帳によって、油屋という家が江戸時代の中期に門田家から分家して油と米を商う伊達藩の御用商人として栄えたことが分かるようです。
 熊八は文久三年(1863)その油屋家の長男に生まれ、寺子屋や私塾で学んだ後、15歳から家業を手伝いました。しかし、ただの米商人ではなく、明治22年(1889)に町制が施行されて宇和島町が誕生すると弱冠26歳で第一期町議会議員に選ばれています。
また、熊八は早くから新聞の力に着目し地元新聞の発刊にも尽力しています。


油屋将軍

 熊八の結婚は23歳のとき、宇和島の名家の娘であるユキをめとった、とされています。
 結婚の前年、熊八は朝鮮半島へ米の視察へ行き、日本と清国の間の利権争いを鋭い嗅覚で察知して、遠からぬうちに日清戦争が起きると予測します。
 この予測をもとに30歳のとき大阪へ出て、堂島で米の相場師になります。
 翌年の明治27年に日清戦争が勃発。米の先物買いで当時三百円、現在の数十億円を手にした熊八は「油屋将軍」と呼ばれる有名な相場師になります。
 当時の写真には外国製の高価な自転車に乗った熊八がうつっています。カンと度胸と若さと莫大な金を持っているわけですから、女たちに大モテだったに違いありません。
しかし、長い間の愛人として名前が知られているのは亀井タマエだけです。


亀の井旅館

 日清戦争終了後の経済大変動によって、油屋将軍は一夜にしてスッテンテンとなり、明治30年に太平洋航路の三等切符を買ってアメリカに渡ります。以後3年間アメリカで働いた後、帰国して「転がり込んだのが大阪の亀井タマエの家だった」となっています。
 タマエさんに食べさせてもらいながら相場師の仕事をしたけれど、なにせアメリカで洗礼を受けた聖公教会のクリスチャンなので、カンが戻らない。
 そういうとき大阪で名前が知られはじめた別府温泉に油屋熊八は独特の嗅覚を働かせて、ここで起死回生を図ろうと、ただ一人乗り込んだ、ということです。
 大阪で金策をし、明治43年、不老泉のそばにできた建売の小さな別荘を買って、客室2間だけの旅館をはじめました。亀井タマエの名前から 亀の井旅館と名付けています。
 最初の女将さんは亀井タマエだったという説もあります。この女性の妹さんは別府市の浮世小路で「一つ家」という店を経営していたと『別府今昔』は伝えています。
 なんとかお金が回るようになって雇入れたのが「みつさん」という女中さんで、この女性は80何歳になるまで 亀の井旅館、亀の井ホテルを取り仕切った有名人となります。
 熊八は本妻のユキさんとの間にも、亀井タマエにも子どもがいませんでしたが、他の女性に男の子が一人生まれていて、このご子息が油屋姓を名乗っています。
油屋熊八をモデルにした中村勘三郎主演の芝居『地獄のご見物、あそばしませ』のオープニングにこのご子息が招かれ、紹介がなくてもそっくり!とみんなを驚かせたそうです。




詳しくは
●『別府今昔』
●月刊アドバンス大分昭和50年7月号『でかい夢の朝』
●月刊アドバンス大分昭和58年1月~9月号『湯の花太閤記』佐賀忠男
●『地獄のある都市』別府市観光協会 をお読みください。