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2014年8月6日更新

第5回
別府温泉における柳原白蓮

その風呂はどんな形だったか

 別府の伊藤別荘(ホテル赤銅御殿)が売却され壊されることになった昭和49年、月刊アドバンス大分という地元の雑誌が建物の最後の姿を撮影して巻頭グラフに載せています。また関連の記事としてこの別荘でしょっちゅう遊んでいたという上野文雄さん(夕刊フクニチ記者)の文章を掲載していますが、これが実に貴重な証言となっているのです。
 白蓮が出奔してから16、7年後の昭和12、3年頃、空き家同然だった伊藤別荘を管理していたのが知人だったため上野さんはよくこの別荘に遊びに行ったといいます。上野さんによると、伊藤別荘の風呂は緑深い庭園の真ん中にあり、本館から渡り廊下が伸びていて、風呂場の広さは13坪だった、と。畳数にすると26畳もの大きな浴室で、さらに建物の周囲を池で囲んでいるため、さながら水に浮かぶ浴室のようであった、と書かれています。
 まさに大正三美人のうちの二美人までが湯あみするにふさわしい、非日常的しつらえではありませんか。

配置図
昭和30年代 ホテル赤銅御殿として使われていたときの配置図。すでに庭園の風呂はなくなっている。
(別府近代遺産ゲニウス・ロキより)
木襖の絵3枚木襖の絵3枚
木襖の絵3枚
廊下に面した戸はすべてヒノキの
一枚板でつくられ帝展特選画家
阿部春峰の日本画が描かれていた。
ふすまの取手
取手も金と銅の七宝焼きである。
伝右衛門の部屋の袋戸棚。
九条武子
別府の伊藤別荘に滞在中の九条武子夫人。
大正三美人の一人であり、才媛として名高かった。
(別府近代遺産 ゲニウス・ロキより)



戯曲『指鬘外道(しまんげどう)』

柳原白蓮
白蓮(別府近代遺産ゲニウス・ロキより)

 白蓮が宮崎龍介と出会うきっかけになったのは、白蓮の戯曲『指鬘外道』でした。倉田百三とも交流があった白蓮は彼の戯曲『出家とその弟子』の大ヒットに刺激を受け、自分も戯曲を書いたのだといいます。『指鬘外道』は『出家とその弟子』とはまったく趣きの違う作品ですが、雑誌『解放』に連載されると大へん評判を取ったそうです。それは一つには著者の白蓮が「身分違いの大金持ち伊藤伝右衛門と結婚した」ということで新聞にセンセーショナルに報じられた有名人だったからでしょう。舞台でも上演したいという動きが出て、その上演の打合せに『解放』編集長の宮崎龍介が別府を訪れたということです。
 上記アドバンス大分の記事で上野さんは、宮崎龍介がはじめて白蓮を訪れたとき大阪から船に乗って別府の楠港に着いたのだと書いています。その証言をしているのは白蓮とともに港へ迎えに行った照山岩男少年です。このとき白蓮は福岡の本宅から伊藤家の養子である八郎少年と支配人の息子である照山岩男少年を連れてきていました。そのうち岩男少年だけが港に行っています。アドバンス大分の記事が書かれた昭和49年当時、福岡のゴルフ場の支配人をしていた照山岩男氏の話。「その朝、別府桟橋まで宮崎を迎えに行く燁子(あきこ)に同行したが、黄八丈の袷に縫紋の羽織を着た燁子の姿をまぶしいまでに覚えている」と語っています。その朝とは大正9年、1月のことだそうです。
 宮崎龍介はそのとき伊藤別荘に二泊したといいます。龍介も美人の湯に入ったことになりますね。




今 私は 身に一糸も帯びぬ裸で

 “別府温泉と柳原白蓮”というテーマで、白蓮が別府温泉に入っていたという゛動かぬ証拠゛となるのは、戯曲『指鬘外道』の序文です。その中から温泉の記述だけ載せますと

今 私は 身に一糸も帯びぬ裸で
やはらかい泉の中にしみじみと  身を浸してゐる

 この場面、場所は別府の伊藤別荘。庭園の中の池に囲まれた13坪の浴室に月の光が射し込んでいる、高貴にして美貌の女主人は恋と自由と人間らしい生き方を渇仰しながら湯あみしている、ということになります。
 序文の最後に白蓮は『豊後別府温泉別荘にて  白蓮』と記しています。

指鬘外道の序文指鬘外道の序文指鬘外道の序文
戯曲『指鬘外道』序文より